千鳥屋太宰師旅人の歴史探訪

元第一線記者が徹底取材した全国沿線のすみずみの歴史を徹底ガイドする!

人間・歴史・風土の追憶

大陸文化の導入口

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長崎街道 木屋瀬周辺 令和元年5月22日 本人撮影

 福岡県は九州の最北部に位置し、本土と九州を結ぶ交通上の要所にあり、中国、朝鮮にもっとも近いことから、最初に大陸文化の影響を受けて固有の文化の開けた所である。
 筑紫の国という。つくし、ちくしと読む。筑前筑後の両国をいうより前、福岡県を中心とした九州の広い地域を古代、筑紫と呼んだようである。筑紫は津櫛で、櫛の形をした津、つまり港の国だという説がある。白い櫛のような浜の多い国である 。
 中でも博多湾内がぴったりである。湾頭の志賀島から湾内を見渡せば、波荒い外洋と対照的に静まりかえった櫛形の津が開けている。中でもいろいろの川の川口が集まり、櫛の歯のような形をして潟を形成する杷潟、つまり博多が、船の接岸にもっとも便利。そのひとつの川、御笠川に沿って、迷うことなく登った所に遠の朝廷大宰府が設けられた。筑紫は九州及び西国の中心であり、外国への窓口であることは、太古依頼の伝統である。地形、地勢がもたらしたものでもあろう
 福岡県の地勢は意外に複雑である。人口も約四五〇万人、九州の人口の三分の一を占めて一県とは思えぬ変化がある。
 地域を区切っていくのはやはり山脈山地である。
 県内の山地は大づかみに見て中国山脈の延長、末端としての筑紫山脈といわれる。それが県内で小さなひだを見せる。
 まず門司半島を形成する企救山地、一番高いのは足立山の五九八メートルである。本土への橋ともいうべき山脈で、実際にその突端から下関へ関門橋が架橋された。
 その南に貫山地がある。貫山は七一二メートル、カルスト台地平尾台を擁するが、小倉を中心とする北九州市豊前平野を分離している。豊前国の半分、山国川までが福岡県だ。
 企救、貫山地を紫川の断層渓谷が割って、福知山山地がある。主峰福知山の標高は九〇〇メートル、北端の皿倉山帆柱山は自然公園として北九州市民の憩いの場所になっている。
 その西に、大きく弧状に南北に伸びる三都山地。南側の英彦山(一二〇〇メートル)を中心とする耶馬渓溶岩台地(大分県との県境をなす)との間に、遠賀川が多くの支流を集めて北流し、筑豊地区を形成している。
 三都山は九三八メートル。この山脈は東の遠賀、鞍手、嘉穂郡と、西の宗像、粕谷、朝倉郡を分け、それほど高くはないけれど結構、深い山地として福岡県を二分している。その間を、北から城山峠、猿田峠、犬鳴峠、七曲峠、冷水峠等、峠で結んでいる。峠越えの道は、冬季積雪があると、九州といえども氷結して交通途絶をもたらすこともある。
 鹿児島本線は城山峠を、筑豊本線は冷水峠を、篠栗線七曲峠、そして新幹線は犬鳴峠の下を、それぞれトンネルでくぐっている。
 三郡山地と大宰府・二日市の構造谷をはさんで脊振山地が西に延びる。主峰脊振山は一〇五五メートル、福岡平野、糸島平野と佐賀県を分離する。
 英彦山阿蘇山地から流れ出た筑後川は三郡山地の南を西流して筑紫平野を作り、有明海に注ぎ、下流の大河が佐賀県との県境をなす。
 その南に耳納山地(主峰は鷹取山の八〇二メートル)さらに矢部川沿岸の八女地方をはさんで筑肥山地が東西に走って熊本県と分ける。ここには県内最高峰、釈迦ケ丘一二三一メートルがある。
 関門海峡から洞海湾、鐘の岬、海の中道博多湾を経て糸島半島から唐津湾へ。響灘、玄界灘に面し、変化に富み、良港に恵まれた、風光明媚、古来の歴史の舞台となった海岸線である。
 企救半島から山国川川口まで約五〇キロは瀬戸内海の周防灘に面した一直線の海岸だ。
 筑後川矢部川川口の有明海沿岸は約二〇キロ、遠浅海岸で、干潮時には沖合い五キロも干潟になり、採貝、ノリ養殖といった特殊な利用が進んでいる。
 このように複雑で多様な地勢だけに、気候風土は場所によって異なる。平均気温は15.5度と東京より一度高く、雨量は平野部で一四〇〇〜一七〇〇ミリ、筑後川矢部川上流では二五〇〇〜三〇〇〇ミリで、高温多雨地帯であり杉の成育地でもある。雨は一般に梅雨期に集中し、県内のどの地区も昔から洪水、水害に悩んだようである。

大宰府と博多津

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遠賀川河口周辺 令和元年5月22日 本人撮影


 福岡空港にほど近い板付遺跡や、飯塚市近郊の立岩遺跡は弥生時代の濃密な遺跡として知られる。春日市の須久遺跡、糸島郡前原町三雲地区の遺跡群は水田耕作を基盤とした小国家が成立していたことを歴然と物語っている。
 魏志倭人伝における伊都国は糸島郡、奴国は福岡市の近郊にほぼ比定され、邪馬台国探しの基点である。志賀島天明四年(一七八四)農夫が発見した「漢委奴國王」の金印も漢の時代、すでに奴国が成立していたことを物語っている。
 筑後地方から筑豊、そして豊前にかけて装飾古墳が多い。古墳の内部をけんらんと彩っている。また八女地方の石人石馬の遺跡は古代王朝に反乱を起こした磐井一族の物語も秘めている。
 宗像郡沖、玄海の孤島、沖ノ島から出土した遺宝は約二万一〇〇〇点、四-六世紀の遺物とみられ、黄金の輝く工芸品を含め一〇〇〇点がすでに国宝に指定されている。海の正倉院といわれ、その発見は日本史上の最大の奇跡とされている。大和朝廷と朝鮮との関係を物語る資料とされるが、福岡県は、明らかに大和の前、日本文化のあけぼの期の舞台であったことは間違いない。
 天智天皇の三年(六六四)鎮西府大宰府が設けられた。“西の都”あるいは“大君の遠の朝廷”と呼ばれ、西国の政治経済の中心とされた。博多津はその外港であり外国使節を接待する場所として博多の近くに鴻臚館が設けられた。遣唐使船の出発港も博多津であった。
 大伴旅人山上憶良など万葉歌人が赴任している。朝鮮に向いた岬に岬守、防人が東国から派遣され、そうした高官や無名の人々が多くの歌を万葉にとどめた。大和以外で万葉の舞台といえばまず筑紫、福岡県である。県内に万葉の歌碑は多い。
 菅原道真が左遷され、その無念は大宰府天満宮となり、広大な梅林を残した。けんらんの大宰府の古代文化は、今、都府楼跡の礎石群でしのぶほかない。
 平家が壇ノ浦のもくずと消える頃、神仏教禅宗が博多に上陸する。鎌倉に至って仏教の新時代が興る。相次いで、大陸から元、高麗の連合軍が二度にわたって博多に押し寄せた。福岡平野は戦場となり、博多津は完全に焼き払われた。日本史上、唯一の外国軍の侵入である。
 古代の大陸への防衛施設が水城や神籠石として残っているが、博多湾海岸の防塁は中世の大規模な構築であった。大陸は日本にとって恐怖の先進国でもあるが、また魅惑の文化の国でもある。
 地の利のよい博多はたちまち復興し、海賊八幡船の拠点となり、やがて室町時代勘合貿易の基地として繁栄した。博多の支配者大内氏は、博多の貿易の利の上に、華麗な大内文化を築いたのである。
 だが戦国末期、大友宗麟と筑紫惟門、また大友と毛利の戦いなどで博多は再び灰じんに帰す。しかし、豊臣秀吉が天下を統一すると再度、博多町割りで復興した。でも江戸時代とともに鎖国政策に伴って外港は長崎一港に限られ、博多は新しい領有者黒田氏の福岡城構築に伴って、その城下町の延長の形となり、衰えた。
 旧博多は第二次世界大戦で三度灰になり、今日四度復活した。しかし、筑紫―福岡県にとって博多の意味は歴史を追って小さくなっている。

三国五藩の伝統

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北九州市旦過市場 令和元年5月22日 本人撮影


 近世、筑前福岡藩黒田五二万石、その支藩筑前秋月藩黒田五万石、筑後久留米藩有馬二一万石、筑後柳川藩立花十一万九〇〇〇石(以上各外様)と豊前小倉小笠原一五万石(譜代)の五藩があった。
 小倉から黒崎を経て飯塚、内野、山家、原田、それから佐賀を通り長崎への街道はいわゆる長崎街道で、鎖国時代の細いながらも文化の道だった。南蛮紅毛の使節たちがこの道を歩き、象もクジャクもこの道を通って京へ上った。明治の本格的な文明開化の前の文化の吸入の道であった。
 明治維新は福岡県にとって恐ろしい動乱の幕開けだった。
 各藩とも藩論の統一がならず、新時代に遅れをとり、福岡藩ではにせ金づくりが露見して粛清の嵐が吹きまくり、続いて明治六年には農民三〇万人が参加する筑前竹槍一揆が起こった。
 しかし、富国強兵の近代となって、筑豊炭田の開発と八幡製鉄所の建設によって新しい意味をもつ。
 北九州工業地帯が形成され、そのエネルギーを無数の炭鉱が支えた。福岡には九州大学が設けられ、文教都市として発展し、久留米にはゴム工場が発足し、日本きってのゴムの町になった。
 爆撃、敗戦の痛手のあと、博多港は大陸引揚港となり、朝鮮、中国からの大量の人々が上陸した。
 戦後、石炭景気が一時高まったが、やがてエネルギー革命。総資本と総労働の対決、三池争議を境に炭鉱は相次ぎ没落、県内至る所の炭鉱はすべて廃墟と変わった。
 中国と国交を回復した今、福岡県は新しい歴史的な役割を期待し探索しているというおころだ。

伝統的な根強い気質

 福岡県民の意識は、以上のような多彩な歴史風土のため一様ではない。
 たとえば福岡城下では豪気で視野が広く、誇り高い。政治家なら広田弘毅緒方竹虎に象徴できる風土である。黒田五二万石の大藩の気概が息づいている。
 しかし博多町民はやんちゃでせっかちで、威勢がよくて口が悪い。お祭り好きで義理固い、西の江戸っ子といった気風。
 筑後人はねばり強い性格とされる。筑後川に沿った肥沃な土地は工夫と努力で何ものでももたらすと同時に、荒れ狂う洪水が時に全てを奪ってしまう。この自然との関わりの中で、多彩な産業を生み出すとともに、おごらずへこたれぬ特有の気質を産んだ。
 小倉から豊前海岸にかけて、瀬戸内海的な濃やかで器用な地域でもあるが、北九州市は、明治以後、いち早く、寂しい寒村から都市化した所で、九州各地の農村から労働力が集まり、集合した気風を作った所である。
 筑豊の炭鉱地帯はもっと直接的に九州人の気質を融合して新気質を作った。
 九州には薩摩隼人肥後もっこす、佐賀の葉隠れとそれぞれ伝統的な根強い気質があるのだが、いわゆる九州男児と呼ばれる気質はどこで育まれたかといえば、筑豊の炭田から遠賀川を経て若松へ。川舟船頭を中心に、炭鉱と工業地帯の男たちから醸成されたとみるのが至当だ。
 景気がよいにつけ 、わるくなるにつけ、酒と博打がつきもので、酒ならば「酒は飲め飲め」の黒田武士の意気が評価され、喧嘩か博打 なら「何ちかんち言いなんな、リクツじゃなか、文句があるなら腕でこい」の威勢が大切とされた。
 闘志満々、だがさっぱりとして、 理屈を言わず行動的という、いわゆる九州男児の男らしさはこんな中で養われ、それは石炭景気とともに博多にも及び、男にも負けないきっぷのよさの馬賊芸者も登場して、博多の花柳界から九州男児のイメージづくりが広がっていった。
 炭鉱が消え北九州工業地帯が斜陽化した今日、JR、西鉄、バス路線のすべてが福岡に集中し、福岡市の管理中枢都市としての機能が高まっている。それは佐賀や唐津など隣県にも及んでいる。対馬壱岐といった離島も高速化する船便で福岡市に接着度を強めている。
 政令都市に指定された当時八五万人だった人口が九年間で一〇六万人に達したのも集中性の現われであろうが、このことは、県民の気質にも影響を与えている。つまり、都会的、平均的、規格的な無性格の気質が広まっている。東京から江戸っ子が薄れるようなものであろうか。
 強い方言をとどめる筑後地方さえも、日々固有の気質を薄めつつあるといえよう。九州では熊本や鹿児島の方が、ずっと風土的特徴を持続しているといえる。三国五藩で一県となった福岡が気質上のアイデンティティを持ち得ないのも当然であろうか。